渋沢栄一とは?プロフィールや経歴を徹底調査してみた!という、とっても旬な話題が飛び込んできました。渋沢栄一さんと言えば、新しい一万円札の肖像に選ばれて、日本の経済の礎を築いた人物として知られていますよね。今回はそんな、渋沢栄一とは?プロフィールや経歴を徹底調査してみた!という話題でお届けしますので、ぜひ最後までご覧ください。
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渋沢栄一のプロフィール
渋沢栄一さんと言えば、新一万円札のデザインになった人ということをご存知だという方は多いかと思いますが、実際どんな人なのか分からないという方がほとんどではないでしょうか?
さっそく渋沢栄一さんのプロフィールをチェックしていきたいと思います。
渋沢栄一のプロフィール
生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日)
出生地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)
享年:91歳(没年月日は1931年11月11日)
職業:幕臣、官僚、実業家、教育者、慈善家など
江戸時代に生まれた方なんですね!江戸時代生まれということで、血液型などの情報は見つかりませんでした(笑)
しかも、その時代の人としてはかなり長生きで、91歳まで生きてたんですね。
基本的なプロフィールをおさえたところで、続いての項目では渋沢栄一って何をした人?経歴を徹底調査!というテーマでお届けしますので、引き続きご覧ください。
渋沢栄一って何をした人?経歴を徹底調査!
渋沢栄一さんのプロフィールに続いて、経歴を見ていきたいと思います。
渋沢栄一さんは天保11年2月13日に、現在の埼玉県深谷市の血洗島というところに農民の子として生まれます。
天保と言えば、江戸幕府の将軍でいうと徳川家斉と徳川家慶の時代ですね。この時代の主な出来事と言えば、天保の改革や大塩平八郎の乱など教科書で習った覚えのあるという方も多いのではないでしょうか?
大塩平八郎(1793 – 1837)。江戸時代の陽明学者。町与力辞職後陽明学を学び、洗心洞を開く。天保の飢饉に際して大坂東町奉行・跡部良弼に建言するもことごとく却下され、最終的に乱を起こした。この肖像画は模写で、原図は菊池容斎によるもの。 pic.twitter.com/R0V6hV1BlR
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) April 28, 2019
いやー、この時代に農民で生まれたという渋沢栄一さんがいったいどうやって、一万円札の肖像に使われるほどの人物になったのか気になりますね!
しかし、私たちが想像する江戸時代の農民と言えば、貧しくて苦労していると思いがちなんですが、この渋沢栄一さんの家は豪農と呼ばれるかなり裕福な農家でした。
渋沢家は、米や野菜以外にも麦や養蚕まで手掛けていた農家で、自分たちで原料を仕入れて、さらにできた製品を売りさばくという、メーカーと商社を一手にやっていたような家庭に育った渋沢栄一は幼少期から経済感覚を身につけていったと言われています。
農家ではありますが、学問や剣術も習得していて、剣術仲間たちの尊王攘夷思想に触れることになり、紆余曲折を経て、将軍・徳川慶喜に仕える幕臣へと駆け上がります。
農民から幕臣になるって本当にすごいですよね!さらに、この徳川慶喜の元でフランスで行われたパリ万博の視察に行っていたり、江戸時代にしてヨーロッパを歴訪するなど、国際的な感覚を身に着けていっています。
江戸幕府が倒れた後は、あの大隈重信に説得されて大蔵省に入省し、その経済感覚を発揮していきます。度量衡の制定や、第一国立銀行の設立にもかかわっています。
大蔵省をやめた後は、サッポロビールや帝国ホテル、東京海上日動など誰もが聞いたことのある大企業の設立にかかわり、その数はなんと500を超えると言われています。
主なものがこちらのツイートに分かりやすく紹介されています。
いまでも大企業と言われている企業ばかりですよね。本当にすごい人だということがお分かりいただけるかと思います。
企業の設立以外にも、慈善活動や教育活動にも力を入れていた渋沢栄一さんは、1931年11月11日に91歳で生涯を閉じることになります。
そのうち大河ドラマになってもおかしくないような経歴の持ち主ですよね!
では、続いては、渋沢栄一の名言を探してみた!という話題でお届けしますので、引き続きご覧ください。
渋沢栄一の名言を探してみた!
渋沢栄一さんの偉業の数々をご紹介してきましたが、偉人に名言はつきものですよね。この項目では、渋沢栄一さんの名言をご紹介していきたいと思います。
現代を生きる私たちにも通じる名言ですよね。お金の儲け方に品位を忘れたせいで、社会的地位を失うという人もいっぱいいますもんね。
続いてはこちらです。
事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。
渋沢栄一 #金言 #名言 #港区 #新橋 #GLORY #ガールズバー #グローリー— GLORY (@Bar_Nest) April 30, 2019
商売における格言なんでしょうが、普通の人付き合いにも通じますよね。自分を信用してほしかったら、まず相手を信用せよ、心に沁みる言葉です。
続いてはこちらの名言です。
この言葉は私も大好きな言葉なんですが、40、50代が鼻たれ小僧で、60、70代が働き盛りってすごい発想だと思います。
実際はこの時代の人たちの平均寿命は60から70歳ぐらいだったでしょうから、何歳になっても謙虚に頑張れという意味かな?と勝手に解釈しています。
何歳になっても学ぶことはできますし、働くこともできるという素敵な言葉ですよね。
さて、続いての項目では、渋沢栄一の学歴は!?という話題について調査しましたので、引き続きご覧ください。
渋沢栄一の学歴は!?
渋沢栄一さんの数々の功績をご紹介してきましたが、これだけの功績を残した方なので大学なんかの学歴も気になりますよね。
しかし、実は渋沢栄一さんには大学などの学歴はありません!
5歳の時から論語や読み書きやそろばんをお父さんから習っていたそうなんですが、学校に通っていたという記載は見つかりませんでした。
現在で言う学校ができたのは明治以降なので、学歴がないのは当然と言えば当然なのですが、それにしても学校に通わずしてこれだけの経済に影響を与える経営手腕などを手に入れたのは本当にすごいことです。
それでは、続いての項目は、渋沢栄一はどんな人だった?その人物像に迫る!という話題でお届けしますので、引き続きご覧ください。
渋沢栄一はどんな人だった?その人物像に迫る!
渋沢栄一さんの経歴についてご紹介してきましたが、実際はどんな人だったのでしょうか?さっそく調べてみました。
実業家である渋沢栄一さんがお札になると決まったとき、実業家だったら他にも『岩崎弥太郎とか有名な人がいるのに』と思われた方もいらっしゃるかと思います。
しかし、渋沢栄一さんが他の財閥を築いた実業家たちと違ったのは、財閥を作らなかったというところにあります。
というのも、渋沢栄一さんの理念に『私利を追わず公益を図る』というものがあり、とにかく自分の利益を上げることよりも、みんなの利益になることを考える人でした。
そのため、500以上の大企業の設立にかかわっていながら、そのほとんどの株式は数パーセントしか保有しておらず、会社を独占するということをしない人でもありました。
他にも、女子の教育の必要性を訴え、女性のための奨学金基金を設立したり、学校の設立に尽力したり、さらに海外の災害に義援金を募って、起炎菌を送るなどの民間外交の礎を作った人物だともいわれています。
もう、功績を並べればきりがない人ですが、そのすべてに共通しているのは、自分の利益ではなく社会全体の利益を考えていたということに尽きると思います。
そんな、渋沢栄一さんが新一万円札のデザインに選ばれたということで、日本の経済もいい方向に向かってくれるといいですよね!
渋沢栄一とは?プロフィールや経歴を徹底調査してみた!まとめ
今回はここまで、渋沢栄一とは?プロフィールや経歴を徹底調査してみた!というテーマでお届けしてきましたが、いかがでしたか?新一万円札の肖像に決まり、脚光を浴びることになった渋沢栄一さんですが、こんなにさまざまな功績のある人物だとは知りませんでした。新一万円札に愛着がわきそうですね!発行されるのを楽しみに待ちたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!
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