渋沢栄一さんは「資本主義の父」と称され、91歳で亡くなるまで人や国のために身を尽くした人物です。波乱万丈な幕末から明治から大正、昭和の時代を駆け抜けた渋沢栄一さんを愛した妻、千代さん。そして後妻の兼子さん。2人の渋沢栄一さんの妻は一体どんな人物だったのでしょう?
今回は渋沢栄一の妻・千代と兼子はどんな人?画像やプロフィールまとめ!という話題について調べてみました。
最後まで是非ご覧下さい。
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渋沢栄一の最初の妻「千代」とは?
渋沢栄一さんを支えた最初の妻「千代」さんとはどんな人物だったのかご紹介していきます。
渋沢栄一の妻「千代」のプロフィール
渋沢栄一さんの最初の妻「千代」さんのプロフィールをご紹介していきます。
引用元:https://pbs.twimg.com
氏名:渋沢千代
旧姓:尾高千代
生没年:1841年〜1882年
父親:尾高保孝
母親:やへ
出身地:武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市)
千代さんは父親の名主の尾高保孝さん、母親はやへさんとの間に1841年、天保12年に武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市)で誕生しました。
千代さんは渋沢栄一さんの1歳年下です。
千代さんの母のやへさんは、渋沢一族の分家の「東の家(ひがしんち)」の血筋で、渋沢栄一さんの父親の渋沢元助さんのお姉さんです。
千代の兄は「尾高惇忠」
渋沢栄一さんのいとことして誕生した「千代」さんには「尾高惇忠」さんという兄が1人いました。
引用元:https://pbs.twimg.com
尾高惇忠さんは小さい頃から学問が優秀だったことから、自分の家に私塾「尾高塾」を開きます。17歳の頃から幕末の時期まで、近隣の子供達を集めては漢籍などを指導していました。
塾生の中には、尾高惇忠さんのいとこに当たる渋沢栄一さんもいました。
のちに渋沢栄一さんと尾高惇忠さんはともに「高崎城乗っ取りの謀議」を計画しますが、弟の尾高長七郎さんの説得に応じ計画を中止しています。
続いては渋沢栄一さんと千代さんは1858年(安政5年)に結婚した!という話題について調べてみました。
渋沢栄一と千代は1858年(安政5年)に結婚した!
渋沢栄一さんと千代さんが結婚した時期やその後の結婚生活についてご紹介していきます。
渋沢栄一と千代は1858年(安政5年)に結婚
渋沢栄一さんと千代さんは元々は「いとこ」の関係でした。
千代さんは小さい頃から働き者で、周囲に気配りできる女の子として成長しました。
千代さんの兄の尾高惇忠は学問を「女の子だから」という理由でなかなか押してくれなかったと言いますが、千代さんはそんなの物ともせず自分の意見をしっかり言える女の子でした。
結婚した年は、江戸幕府が「日米修好通商条約」を結び、大老・井伊直弼が「安政の大獄」を始めるなど激動の幕開けの年でした。
穏やかな結婚生活から、渋沢栄一さんと千代さんの結婚生活は変化することとなります。
穏やかではなかった結婚生活
渋沢栄一さんと千代さんが結婚した翌年尊王攘夷運動の機運が高まると、渋沢栄一さんは北辰一刀流・千葉栄次郎の道場で剣術を学び始めます。
そこで交流が増えたことで、渋沢栄一さんは尊王攘夷の思想へと傾いていきます。
1863年(文久3年)には、渋沢栄一さんが千代さんの兄・尾高惇忠さんと共に倒幕を決意してしまい、家を出て行ってしまったことから、千代さんと渋沢栄一さんの結婚生活は穏やかとは程遠いものだったと言います。
続いては渋沢栄一さんの最初の妻「千代」さんはコレラで42歳で亡くなっていた!という話題について調べてみました。
渋沢栄一の最初の妻「千代」はコレラで42歳で亡くなる
渋沢栄一さんと妻の千代さんの間には4人の子供が誕生しています。
先ほど渋沢栄一さんが尊王攘夷に目覚めたことで、家を出て行ってしまったとご紹介しました。
渋沢栄一さんは徳川慶喜さんに仕えており、パリ万博に同行するとさらに2人はバラバラな生活を送っていました。
その間、渋沢栄一さんは千代さんに度々手紙を送ったとされています。
またその手紙の中には、千代さんの弟の尾高平九郎さんを養子に入れ、江戸で共に暮らすようにと手紙に記されていたとされているんですよ。
千代さんが亡くなったのは、長女の歌子さんが結婚した翌年のことでした。
いつも一緒にいられない環境だった渋沢栄一さんと千代さんでしたが、2人はとてもお互いを気遣いあっていたことを伺い知ることができますよね。
続いては渋沢栄一さんの後妻「兼子」さんについて調べてみました。
渋沢栄一の後妻「兼子」とは?
渋沢栄一さんの妻「千代」さんが42歳の若さで亡くなった時、渋沢栄一さんは43歳でした。
渋沢栄一さんの後妻となる「兼子」さんは一体どんな方だったのでしょうか?
渋沢栄一の後妻「兼子」のプロフィール
渋沢栄一さんの後妻となった「兼子」さんのプロフィールをご紹介していきます。
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氏名:渋沢兼子
旧姓:伊藤兼子
生没年:1852年〜1934年
父親:伊藤八兵衛
出身地:江戸
兼子さんの父親の伊藤八兵衛さんは、江戸屈指の豪商で知られた深川油堀の伊勢八として名が知られた人物でした。
実家は水戸藩の公金御用達も務めるほどの豪商だったため、兼子さんも渋沢栄一さんと結婚する前に婿養子を取り実家を継いでいます。
しかし明治維新が起きると、横浜での為替取引が一因となり家業が傾いてしまったため、婿養子とは離縁しています。
その後兼子さんは家が没落してしまったことから、芸妓の道へと進んでいました。
渋沢栄一と「兼子」の出会い
渋沢栄一さんと後妻となった兼子さんとの出会いはどんなものだったのでしょうか?
千代さんが亡くなった時、渋沢栄一さんは43歳の若さでした。
ちょうどその頃、兼子さんは婿養子と離婚し自分の力で生きていくために芸妓の道へ進みます。
芸妓として活躍し始めた頃、兼子さんは渋沢栄一さんを紹介されます。妾として数多くの縁談があったという兼子さんですが、妾だけは嫌だと縁談を断り続けていました。
渋沢栄一さんと兼子さんが結婚したのは、千代さんが亡くなった翌年のことです。
渋沢栄一さんが兼子さんを家に連れて行くと、そこはかつて兼子さんが住んでいた実家だったというのが驚きですよね!
2人は何かの縁があったとしか考えられないエピソードです。
渋沢栄一さんと兼子さんの間にも4人の子供が誕生しています。
引用元:https://pbs.twimg.com
続いては渋沢栄一さんと兼子さんの結婚時期について調べてみました。
渋沢栄一と兼子との結婚時期は分かっていない!?
渋沢栄一さんは千代さんをコレラで亡くした後、伊藤兼子さんと翌年に再婚しています。しかし実は渋沢栄一さんと兼子さんが結婚した正式な時期は分かっていません。
渋沢栄一さん
渋沢栄一さんには愛人(妾)と呼ばれる女性が多くいました。そのため渋沢栄一さんの愛情が最も深かった兼子さんが選ばれる形で千代さん亡き後、後妻として結婚することになったと言われています。
そのため実際には詳しく結婚した時期については不明なんだとか!
続いては渋沢栄一さんと兼子さんの再婚を子供たちが反対していた!?という話題についてご紹介してきます。
渋沢栄一と兼子の再婚に子供たちは反対だった!?
渋沢栄一さんは千代さん亡き後、伊藤兼子さんと再婚しています。先ほどもご紹介したように、渋沢栄一さんに数多くの妾が存在しており、その中でも愛情を多くかけていた兼子さんを後妻として迎え入れています。
しかしこの再婚については渋沢栄一さんと千代さんの間に生まれた子供達は反対していたんだとか!
というのも渋沢栄一さんは明治4年、31歳の時に大阪に赴任しています。その時に現地妻として渋沢栄一さんを支えていた「大内くに」さんという女性がいました。
大内くにさんと渋沢千代さん
大内くにさんは後に渋沢栄一さんとの間の子供を身ごもってしまいますが、渋沢栄一さんと千代さんに頭を下げる形で東京の神田の新居で、渋沢栄一さん、千代さん、大内くにさんと同居することとなりました。また千代さんと大内くにさんは同時期に渋沢栄一さんの子供を出産しています。
千代さんと大内くにさんがほぼ同時期に出産しているとは…さすがに驚きますよね。
その後、大内くにさんは千代さんの子供の世話と共に渋沢家で生活していたことから、千代さんの子供たちも大内くにさんにとても懐いていたんだとか。
大内くにさんに子供たちも本当に懐いていたそうですよ!
そのため、千代さんがコレラで亡くなった後に5歳に伊藤兼子さんを連れてきた時には、千代さんの子供たちはとても反対したと言われています。
大内くにさんは渋沢栄一さんとの間に明治4年生まれの「ふみさん(のちの文子)」、明治6年生まれの「てるさん(=のちの照子)」を設けました。また渋沢栄一さんからも認知してもらったため、嫡出児となりました。
その後大内くにさんはてるさんを出産後は渋沢家の召使いの立場になったと言われており、最終的には渋沢家から出て行ってしまっていますが、その後の詳細や亡くなった時期などは分かっていません。
最後に渋沢栄一さんのプロフィールをご紹介していきます。
渋沢栄一のプロフィール
渋沢栄一さんのプロフィールをご紹介していきます。
氏名:渋沢栄一さん
生年月日:1840年3月16日(享年91)
出身地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市皿洗島)
職業:幕臣、官僚、実業家、教育者
配偶者:千代、兼子
渋沢栄一の妻・千代と兼子はどんな人?画像やプロフィールまとめ!まとめ
渋沢栄一さんの妻・千代と兼子はどんな人?画像やプロフィールまとめ!という話題について調べてみましたがいかがでしたか?
江戸から明治の激動の時代に結婚した相手が、たまたま日本の中心を担っていく存在だったら…そう考えると、千代さんと兼子さんが内助の功で支え続けていたのも納得ではないでしょうか?
最後までご覧頂きましてありがとうございました。
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